誰と何をどう食べるか

何を食べるかは大事だけれど、どう食べるかも大事なことだと思う。
小学校の給食がとても辛かった。
給食当番が金属音を響かせて給食を運んでくる。
準備。配膳。45人が一斉に食べ始めるときの押し付けてくる空気。
そうした全部が堪らなかった。
給食を残してはいけないと言われた理由はいまも知らない。
いつまでも食べることができずに泣いている子の机だけそのままにして掃除の時間になり、
周囲が箒で床を掃き始めていたと、藤原辰史さんの「縁食論」に書いてあった。
その光景なら確かにあった。
かといって、お弁当も辛い。
お弁当作りが愉しい方もおいででしょうが、僕には無理です、苦痛だ。
しかも弁当は一瞬で、その子の背景が家庭事情もなにもかも見えてしまうわけです。
戦後の食糧難の時期には「トトちゃぶ」といったそうですが、弁当がわりに校庭の水飲み場でガブ飲みしていたところを同級生に見られて死にたいほど恥ずかしかったと、これは開高健が書いていた。それを昔話と言えなくなりつつあるこの国。
写真の「ポースケ」はノルウェイの復活祭だそうです。ひとつトボけた語感。
奈良の地方都市のカフェレストランが催した一日限りの「ポースケ」に集まった人たちのオムニバス。芥川賞「ポトスライムの舟」の続編です。久しぶりに現代小説に耽りました。いま誰と、なにを、どう食べるか。そのことを考えている人や、そんな小さな場所をつくっている人は、どうぞ読んでみてください。