自然農法・自然栽培とは

2024年1月8日

自然農・自然栽培を学ぶ神奈川の農業体験農園「さとやま農学校」
草も花も自然農法の大事な仲間です@さとやま農学校・すどう農園

自然農法の基本・有機農業と自然農法の違い

自然農・自然農法・自然栽培あるいは無肥料栽培という言葉が年々広く知られて知られるようになりました。
同じような言葉が多くてややこしく感じますね。今は情報・新しい言葉が多すぎて混乱しがちです。たとえば料理のスタイルでもかつてベジテリアン、玄米正食と言っていた70年代や80年代からやがて穀物食、マクロビオティックへ、あるいは雑穀に焦点を当てた「未来食」、そして今はビーガンさらにプラントベースといった具合に、言葉も実践内容も多様化していますね。私の知らない言葉も色々あります。言葉が多すぎてついていけません。

 自分自身の整理もかねて自然農法についてまとめてみました。
 自然栽培や無肥料栽培を巡る批判や疑問については、ごく最新の科学的な知見も入れました。後半はエピジェネティックなどという耳慣れない言葉もありますが、ムズカシイなあと思う方は読み飛ばしていただいて結構です。私たち昭和世代にとっての農業の現場では古典的な生物や化学、つまりニュートンやダーウィンが鉄壁の教えでした。しかし現代科学の地平は、さらにフロンティアを拓きつつあるようです。「無肥料栽培」などは、まだまだ解明すべき点は多いし、いまなお全面的に否定する方もおいでです。しかし私たちは、新しい実践による否定しようのない結果に対しては「そんなのあるはずがない」と頭ごなしにかかってはいけないのです。

 かつて地動説を唱えたガリレオを異端として処刑したのは、地動説によって自分たちの権威が揺らぐことを恐れた聖職者でした。自然栽培・無肥料栽培へのことさらな批判は、肥料を使う自分自身まで否定されるような不安を覚えるからではないでしょうか…そんなつもりはないのですが。その点では、堆肥を作って無農薬で有機農業をされている方のなかにも、無肥料栽培にことさらな批判をする方がおられるのは残念です。無農薬栽培が農薬を使う生産者から攻撃されるのと同じような構図ではないでしょうか。もちろん偏見を持たずに興味をもち、段階的に無肥料栽培に移っていく方もおいでです。

 

というわけで、以下長くなりますが、自然農法を学ぶ「さとやま農学校」の皆さんをはじめとして、これから自給・農的暮らしを始める皆さんにも参考になるかと思います。ゆっくりお読みになってください。

 

※まずは前置き

 私自身は80年代に千葉大の園芸学部で学びました。まさに慣行農法のど真ん中で農薬や化学肥料を前提とした農業でした。その一方で家畜を飼いながら堆厩肥を作って土を創る「有畜複合型」の有機農業と出会い、多くのことを教わりました。卒業してからは仕事で海外協力の仕事に携わることになり、多くの有機農業の方々に海外の現場に行っていただいたり、海外の農業青年を日本に招いて研修をお願いするなどの多大なお世話になりました。

 私がお世話になった農家の方々は、ご自身のことを誇りをもって「百姓」とおっしゃいます。「百姓」とは蔑称でなく「百の姓(なりわい)を持つ」意味です。つまり色々な仕事・作業をこなして生きているという、とても誇り高き言葉です。そうした百姓の先輩方が、ごく少数ながら、堆肥も使わない農法、あるいはトラクターも使わない不耕起栽培・自然農法にシフトされていく様子を見るなかで、そこに理屈抜きで「自分はこっちだ」と直感的に思えてきたのです。その辺りは私自身の生まれ育ちから説明する必要があります。かなり長い文章になるので、それは別にnoteに書きました。下のリンクです。
 
高度成長期の下町生まれが里山の自然農にたどり着くまで

書き終わる頃には、たぶん単行本くらいの分量になりそうです。急がずに自分と対話しながら少しづつ連載しています。完結するのは早くて来年になるでしょう(さすがに農繁期は疲れて書けませんので)。お時間のある時にご覧ください。

 
 自然農法や自然栽培と有機農業の違いを一口に言えば「畑や自然界に対する構え方の違い」だと思います。
 有機農業では堆肥を作り、それを畑に還すという形で、人間から積極的(アクティブ)に取り組みます。場合によっては市販の堆肥を購入することもあります。自作の堆肥にしても、外部から牛や豚などの糞を購入することも多いです。とりわけ大規模な有機農業になればなるほど、資材を購入してブレンドし、醗酵させて堆肥をつくるという形式になります。そしてどんな素材をどう混ぜればどんな結果が出るか、事細かに研究します。年間に何トン・あるいは何10トンという堆肥を作る場合は人力では到底無理で、ブルドーザーのようなバケットのついたトラクターで切り返しをする。完熟した堆肥を畑に運んで散布してトラクターで耕うんする(すき。一般的にはこうした流れですから、堆肥上も含めて設備投資もかかります。

 それに対して自然農法は受けの姿勢(パッシブ)です。人間の側から必要最低限の整えはしますが、それ以上のことはせずに自然の循環・自律に任せるのです。軽く見られがちなのですが、必要最低限の「整え」はとても大事になります。これもしないでただ作物を作ろうとしても失敗します。
 自然農法と雪農法のどちらかが絶対的に良い悪いと考える話ではありません。根本的には好みの問題です。しかし日本では、すぐに優劣つけたがるのですね。まるでキリストとブッダを比べるような神学論争です。ことさらな差異に優劣をつけたがる心は、ときにお互いを攻撃しあって戦争にも発展しました。間違っても無益な争いになりませんよう。

 

※ちょっと余談 
日本語の有機農業の意味は「有機物を使う」からではないそうです。中国で「有機」とはチャンス(機)があると書くそうですが、そこから頂いた「有機」なのだそうです。私も最近まで知りませんでした。なんとも含蓄のある言葉ですね。 

自然栽培と無肥料栽培による生物多様性
多様な草が生えることで地上から地中までが安定した空間になります。

自然農法で自給菜園を始める

 

皆さんが自給菜園を考えるなら、あるいはすでに市民農園や貸し農園などで野菜作りを始めているのでしたら自然栽培・自然農法をお勧めします。

 

その理由を以下に説明します。

①農薬・化学肥料・除草剤を一切使わない。

自然界は、本来おのずからバランスを取る自律作用があります。たとえば私たち人間は、体温や脈拍などを無意識に安定させますね。同じように自然界全体も、それ自体が大きな生き物であるかのように、バランスを整えているのです。都会にいるとそれが見えません。まるで人間だけが独立して生きているかのような感覚で暮らしていませんか?東京で生まれ育った頃の、かつての私がそうでした。

 農薬も化学肥料も、自然が本来備えている自律を考えない人間中心の発想で作られたものです。「目の前にある病害虫を殺せばいい」と農薬を使う。「とにかく野菜だけを大きくすればいい」と化学肥料を使う。「雑草をなくせばスッキリする」と除草剤を使う。一見便利なようですが、ますます自然界のバランス・自律作用が失われてしまいます。

 もちろん農薬などの副作用も言うまでもありません。農薬と副作用の因果関係は、立証することが困難です。あるいは世代を超えて副作用が出ることもあります。そして今書いたように、本来の自然界の自律作用が失われてしまうこと。それが危険なことなのです。

 

②市販の動物性の堆肥(牛糞・鶏糞など)も必要ない

 動物が悪いわけではありません。自分で家畜を飼い、農園でとれた安全な飼料で育てるのが本来の「有畜複合農業」ですが、市販の鶏糞や牛糞などを使うのは、それとはまったく意味の違う危険なものです。日本の家畜のほとんどは輸入の飼料に頼っています。遺伝子組み換えで作られた大豆やトウモロコシによる混合飼料です。そして動物虐待とも言えるほどに不幸な飼育環境の中での薬漬けです。

 

③市販の微生物資材(○○菌の類)も必要ない

 微生物は身近に無限にいます。たとえ皆さんのお住まいが大都会の高層マンションであっても、自家製酵母のパン焼きや、乳酸菌たっぷりのぬか漬けやキムチ。あるいはミキ(奄美や琉球地方に伝わるコメやイモを醸した伝統食)など、醗酵菌を身近にする暮らし方はできますね。

 そうした醗酵菌は、畑でも大事な仲間です。「さとやま農学校」では畑の微生物と私たちの腸内の醗酵菌の相似性を学ぶのですが、段々と見えない世界が身近に感じられてきて、それもまたワクワクと愉しいことです。俗に善玉菌とか悪玉菌という言い方をしますが、ひとつだけを取り出して善悪をラベル付けするのも不自然です。バランスのとれた自然界(①で上げた自律状態の土)では、様々な菌・微生物が多様に生きています。人体の腸内や皮膚でも同じですね。どれか一つだけが「一人勝ち」することはありません。しかしバランスのとれている平和な状態の土に②で挙げた動物性の堆肥など入れると、これでまた土のバランスが崩れます。その意味もあって「市販の堆肥は無用、あるいはそれ以上に有害」ときっぱり申し上げています。

 市販の微生物資材は、それがどんな微生物かは企業秘密なので分かりません。だからずっとその菌を購入し続けなければ野菜が作れないかのような関係になってしまいます。医者に処方されるままに薬をずうっと服用し続けるのと似た関係ですね。とても不自由と思います。自給という言葉が無意味になります。

 自然農法を行う団体のなかには、特定の微生物資材を商品化し、有料で販売しているところもあります。ですから自然農法と一口に言っても現状は違いが出てきているようです。しかし「すどう農園」では、微生物資材を購入することはありません。「さとやま農学校」でも、微生物は一切買う必要がありませんと言っています。身近な微生物と仲良くするというのが大きな原点です。

日帰りの里山で自然栽培を学ぶ「さとやま農学校・すどう農園」
里山という大きな多様性の空間の中で自然栽培ができるのは理想的なことですが小さな畑でも可能です

自然農法の流れと考え方

この項目をまとめるにあたっては「すどう農園」での実践に加えて「自然農法センター」のHPおよび農文協の「ルーラル電子図書館」の膨大なアーカイブを参考にさせて頂きました。「ルーラル電子図書館」は有料のデータベースですが「現代農業」の過去数十年の膨大な記事や江戸時代の農書や各地の伝統食その他のデータまで、一生かかって読み切れないほどの知恵の宝庫です。
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自然農法の創始者二人

戦前のほぼ同時代、福岡正信氏と岡田茂吉氏のお二人による別々の始まりがありました。

岡田茂吉氏は、1930年代に自然農法を提唱し、現在もその流れは(いくつかの形に分かれながら)自然農法国際研究開発センターに引き継がれています。

 

自然農法センターのHPによれば、昭和10年(1935)に、創始者の岡田茂吉氏が、自然農法の理念と原理を示しました。

★まず「自然農法の理念」として:

大自然を尊重し、その摂理を規範に順応する。とあります。

これは全くその通りで、自然の大きな流れ、循環、自律(おのずとバランスを取る)の中に、人間はあくまで謙虚に身をゆだねるべきと思います。「さとやま農学校」のなかで何度となく受講生の皆さんに伝えているのも、そのことです。

 

★つぎに「自然農法の原理」として:

生きている土の偉大な能力を発揮させる。とあります。

つまり、生命を生かし、より豊かにしようとする自然の働きを引き出し、永続的な生産を行うことが自然農法の目標です。

「より多くの生命が、より豊かに調和する」方向性と、それを支える複雑で巧妙な仕組みがあります。一つの生物個体である私たちの体の中でさえ自らを守る巧緻(こうち)な仕組みがある。自然の仕組みを理解し、その働きを引き出すことが、自然農法の原理である「土の力を発揮すること」にもつながっています。自然の仕組みの最たるものが「生物を介した循環」です。

いまは、この循環があちこちで切れてしまっています。都会では土そのものが見られなくなってきていますし、自然が豊かなはずの農村でも、様々な農薬や汚染物質によって、循環の要である小動物や微生物が激減しています。

 

★エネルギーについて

熱や光をつかさどる太陽からは火素エネルギーを頂く。
水をつかさどる月からは水素エネルギーを頂く。
そして地球の奥からはもっとも重要な土素エネルギーが出ている。

 

★今の日本の農地の多くは、永年施用されてきた肥料が、だいたい地表から30センチくらいのところで硬く冷えた層をなしている。自然農法・無肥料栽培を実現するには、まずこの肥毒の層を除くことが先決。

「人為肥料のごとき不純物」を入れずに土を清浄に保つと、肥料に邪魔されないので土本来の性能(土の偉力=土にもともと備わっている、植物を健全に育てる力)が発揮される。自然界では、熱や光をつかさどる太陽からは「火素エネルギー」、水をつかさどる月からは「水素エネルギー」、そして地球の奥からは「土素エネルギー」が出ていて、これら3つのエネルギー(霊気)が土に満たされると作物が正常に生育する。このことを理解したうえで「土を尊び、土を愛す」ると、土の偉力は「驚くほど強化される」。作物も肥料を使うと一時的には効果があるが、やがて「土の養分」を吸う本来の性能が衰え、いつしか肥料を養分としなければならないように退化してしまう。

 

 無肥料栽培にあたって、取り組むべき課題は大きく挙げて二つ。

 ①土にたまった肥料(肥毒)を抜く。つまり土壌中の残留肥料と未分解の有機物をできるだけ早く除去浄化させること。長期的にみた無肥料栽培の収量の推移は、その残留肥料が抜けるまでの期間は減収するが、抜けきったある時点から収量が増収へ転ずる傾向がある。ある時点から土壌の何かが変わるのである。残留肥料が化学肥料主体の場合は溶出が早く残留性が低いため、数年のうちに土壌が変化する。しかし有機肥料の場合は土壌粒子との結合が強く、溶出と分解も緩慢で残留肥料(肥毒)が抜けるのが遅いため、土壌の変化には長年を要する傾向にある。

 

 ②物理性改善は、無肥料栽培でもとても重要な二つ目は、田畑の環境整備と物理性の改善である。たとえば水はけの悪いところは改良し、畑地で耕盤層がある場合はそれを解消する。また、作物ごとに合った栽培体系をさらに研究し、好適な栽培環境づくりに努めることが大切。この点は農業の基本であるが、一般には施肥という外力によって、そのような内的環境要因の優劣が見えにくくなっている。無肥料栽培で尊重するのは、施肥概念の最小養分律ではなく、作物のもつ力を最大限に発揮させられるための「最小環境律」の向上である。ちなみに、現在の作物品種は多肥要求性のものが多いことから、それとは逆の無施肥条件に十分適うような品種を自家採取で育てていく(以上、岡田茂吉氏の文章から要約)

 このように「無農薬」「無肥料」が原則ですが、岡田氏の死後、堆肥や資材の使用の範囲あるいは微生物資材の活用の有無などをめぐる考えが分かれながら「MOA自然農法文化事業団」「(財)自然農法国際研究開発センター」「神慈秀明会」「黎明教会」などが、現在まで岡田氏の理念を引き継いでいます。

※さてここまで読むと「自然農法って宗教がらみなの??」と疑問に思ったり「宗教はイヤ」と、引いてしまう方もいるかもしれません。しかし現在、自然農法を実践する多くの農家さんは、上に挙げたような特定の団体との結びつきはありませんし「すどう農園」でも特定の宗教との結びつきはありません。個人的には親の代からの浄土真宗ですが、とくに畑に親鸞聖人がいたりしません(笑)。クリスチャンで自然農法に取り組んでいる方もおられます。

 いずれにせよ農業そのものは、自分よりも大きな自然界(太陽や大地)への畏敬や篤い感謝の気持ちなくしては成り立たないものです。その気持ちが祈りとなり、様々な信仰や宗教の形になったのは太古からの人類の道筋でした。それぞれの信仰に基づいて農に向かうのは自然だと思います。もしも宗教に絡めて問題があるとしたら自然農法をダシにした勧誘などでしょうが、私はそういう目に遭ったことはありません。むしろ訳の分からない微生物資材の売り込みの方が、よろしくないですね。これは健康食品と同じでやたら高額なものも多いです。

★いっぽうの福岡正信氏は自らの農園で自然農法を実践し「わら一本の革命」などの著作は海外でも広く知られています。かつて私(須藤)がまだ東京で海外協力の仕事をしていた頃、アジア各地の農業現場でも福岡正信氏の名は、とても広く知られたものでした。アジアのノーベル賞ともいわれるマグサイサイ賞を受賞されたこともあります。ただし福岡さんの書かれたことは、かなり哲学的な記述が深くて難しいものです。 

 とりわけ農業体験のない人が読むと「何もしなくてもよい」というように読んでしまいがちなのです。とくに外国の人には日本=禅という静的なイメージもあるからでしょうか。そう感じた人が、草の生えた中にいきなり野菜の種など蒔いてしまうと、まず間違いなく失敗します。そういうケースは枚挙にいとまがないのです。やはり優れた思想家にはそれなりの媒介者(通訳)が必要なのだと痛感します。

 その後、福岡氏の考えに影響を受けながら発展させて「奇跡の林檎」がベストセラーにもなった木村秋則さんの自然栽培・無肥料栽培は「何もしない」のではなく、そこまでの環境を整えるということを大事にされて体系化されています。詳しい内容は「ここまでわかった自然栽培」(杉山修一・青森大学教授 2022・農文協)に研究者としての最新の知見が書かれています。

 

多様性のある世界を造る自然農法を学ぶ「さとやま農学校・すどう農園」
昆虫や鳥、カエルやトカゲなどの小動物もみな農園の仲間

自然栽培(無肥料栽培)への批判や疑問に対して

無肥料栽培で何年も続けて作物が収穫できるという現実を、現代の農学では説明できません。 
近代農業(慣行農法)は、植物の栄養素はチッソ・リン酸・カリのほかに16種の必須微量元素が必要で、植物の生産量は最も少ない無機成分量に支配されるという「最小養分律」の考え方が基本になっています。この「最少養分律」という考えは戦前のドイツの化学者リービッヒによるものです。二度にわたる大戦は、化学肥料の技術が飛躍的に高まりました。窒素肥料を「ハーバー・ボッシュ」方によって合成することもドイツで成功しました。これはイギリスに海路を封鎖されて肥料が入らなくなった時のことです。そしてほぼ同じ時期に、イギリスの農業技師であるハワードは、植民地だったインドで「有機農業」を著しました。

 今の日本の農業現場のほとんどで、無肥料栽培は非科学的であるとして否定されます。下手をすればサギまがいに言われることもあるでしょう。
「肥料を使わなければ、いずれ地中の養分がなくなってしまう」
これが自然農法や無肥料栽培を巡る非常にシンプルな疑問であり、時に農業者や研究者からの批判となる最大のものです。

そしてその答えも、自然農法や無肥料栽培を実践されている方々や研究者によってさまざまですが、自然農法を実践していない人には分かりにくいことでしょう。
そもそも施肥による栽培を基本としている近代農法の手法で無肥料栽培を計測・評価するほうが難しいのかもしれません。たとえば食生活の評価も同じです。かつての欧米の栄養基準からすると、日本食はたんぱく質の摂取量などが非常に低く、かなり栄養価の不満足なものとされました。しかし今ではむしろ日本の伝統的な食事が見直されています。

物事を理解するのに、どのようなモノサシをあてるかはとても大事と思うのです。無肥料栽培では窒素がなくなるとか、実際に計測したら養分が基準の10分の1だったとか、色々なデータもありますが、そうしたデータと裏腹に、ちゃんと収穫できているファクトに科学が追いつけないのが現状のようです。このあたりは、杉山隆一先生(青森大学)や木嶋利彦さん(MOA)などの研究もあって、だいぶ解明されてきた面もありますが、まだまだこれからでしょう。私自身も農学を学んで感じたことですが、非常に多様な生命や気象環境が複雑に関係しあう自然界を、ごく限られた面だけ測定して判断するというのは、むしろ非科学的に思えました。血圧計だけで人間の健康を判断しようとするに等しい行為です。

 そして「すどう農園」も無肥料栽培です。しかし自然界の大きな流れに活かされることで、物質もエネルギーも巡るのでしょう。おかげで元気に野菜も育っています。もちろん近年の気候変動などに対応すべき課題は新しく出てきますが、それもむしろ、無肥料栽培で育った強い野菜を種取りしていくことを基本にして対応しています。

 大まかに要約すると以下のようになります。文字では理解しにくいので「さとやま農学校」では農作業の中で実際に触れながら説明をしています。なんといっても自然こそが先生なのです。

※マメ科以外にも窒素を固定する菌が発見されるなど、微生物の世界は未発見の部分がほとんど。培養も難しいので微生物に由来する窒素の量なども正確には計測できない。昆虫やシロアリの腸内細菌も窒素を固定する。膨大な昆虫による膨大な糞にはこうした窒素が含まれている。

 ところが肥料が過剰な土壌では、チッソ固定菌(とくに根に共生する菌)は繁殖しない。これは大豆など豆類の根粒菌と同じだから、大豆は痩せた土でつくる。肥料成分が十分だと植物や微生物は働かない。逆に肥料成分が少なければ植物や微生物たちが協働を始める。いずれにしてもまだまだ解明されていないことが多い。

 

 リン酸成分は、土中のアルミニウムなどと結合して安定してしまうために「リン自体はあるけれども使えない(不可給態)」ことが多い。特に火山灰の多い関東ローム層ではそれが顕著。そこで草を積極的に生やして土に還していると、土は腐植が増えてくる。この腐植はチッソやミネラルなどの養分を貯めこみ、アルミニウムと結合していたリン酸のロックを解除して植物が吸収しやすい状態(可給態)に変えてくれます。このときに植物の届かない遠くに菌糸を伸ばして栄養分を取り込んだり、野菜の根に渡したりするのが菌根菌と総称される菌類やキノコの仲間です。いまでは「菌ちゃん」と呼ばれて愛されるようになりました。

 菌類といかに仲良く共生するかは、畑だけでなく、醗酵食でも、あるいは腸内細菌でも、皮膚の常在菌でも、すべてに共通することですね。無数の菌があってこそ人間も健康に生きていられるわけですから、逆にアルコールで毎日のように手の平を消毒などしていると常在菌もいなくなってしまうわけです。

 (見方を大きな視点に変える)

 同じ野菜ばかり育てるのでなく、一緒に多様な草が生えることで菌根菌も多様になります。作物や草の根を菌根菌がブリッジして養分を渡す様子も分かってきました。しかし未解明の部分も多いのです。色々なモノが多様に動きあう、作用しあう世界を解き明かすのは、なかなかムズカシイのです。
 これまで一つの対象に絞って研究をしてきた農学の枠組みから、世界を複雑で多様に動くネットワークとしてとらえることへの転換が求められています。重箱の隅をつつくような研究でなく「総体として世界はどう生きているのか」という統合的なアプローチが必要なのだと「すどう農園」は考えます。

 医学に例えれば人体をパーツに分けて解明する西洋医学だけでなく「生きたもの」としてトータルにとらえるホリスティックな医学のようなアプローチでしょう。そこがまだまだ農の世界には圧倒的に抜け落ちているのです。これから農的生活をする皆さんは、これまでの「常識」にとらわれずに自由に世界を感じて楽しんで欲しいものです。

 

(無肥料栽培で新規就農は認められない?)

※余談ですが、私の周囲でも新規就農の際に「無肥料栽培で就農します」と宣言したら就農認定に待ったがかかった、ということもよく聞きます。就農認可をする側に立ってみれば、まだまだ無肥料栽培の実績も少ないことから、無理からぬところかもしれません。しかし今や中国など肥料大国からの日本への輸出打ち止めという現実を目の当たりにして、これから農業を復活させるには慣行農法では限界があるのです。というか無理です。ただでさえ高齢化で日本の農業は死に体です。これまでの路線が明らかに崩壊しているというのに、新しい道を認めない陋習(ろうしゅう)は、まず変えなければなりません。

 「奇跡の林檎」をめぐる木村さんの自然栽培・無肥料栽培などは、メディアで過剰に宣伝しすぎた反動もあるでしょうが、農業者の間では有機農業の関係者からの批判も含めて、ずいぶんなバッシングをいまなお受けています。

 逆に木村さんの応援団サイドからは過剰に崇めるようなセンチメントもあり、それはそれで???と首をかしげます。土に触れていない人ほど自然だの古代だのというキーワードにエキセントリックに反応するようです。気持ちは分かりますが、もっと落ち着いて見守ればいいのに・・穏やかに。

    

参考文献

「自然農の素朴なギモン」現代農業2010年8月号 木嶋利夫氏インタビュー

「土中環境」高田宏臣 建築資料研究所

草も天敵も共生する自然栽培を学ぶ「さとやま農学校・すどう農園」
野草も畑に必要です。小さくテントウムシが見えますか?

自然栽培は、無肥料栽培でどうやって栄養を得るのか

  自然栽培・無肥料栽培では栄養成分を人が肥料などの形で補うことはありません。 

 では植物は、必要不可欠な成分をどうやって得ているのでしょうか?

 答えとなる象徴が森の樹です。
 「さとやま農学校」には、私たちを見守るように大きなケヤキが生えています。

 そのケヤキは、おそらく百年近いものでしょう。もっとかもしれません。いずれにしても、誰にも肥料など貰うことなく生きています。ケヤキがいつか枯れるとしたら、それは土に栄養がなくなるからでなく、あくまでもケヤキが天寿を全うしたときです。これは不思議でも奇跡でもない。

 肥料はなくとも、毎日太陽のエネルギーがあります。まさに岡田茂吉氏の言う通りです。

 太陽から出発して、水を宿しながら命が次々に形を変えて世界を巡っているのだと考えます。実際にこれは農園で作業すればすうっと身に染みてくることです。

 さではケヤキは、ミネラルや無機質をどこから得ているのでしょうか?

 ミネラルとは、カルシウムや鉄など、植物に欠かせない元素です。炭水化物やたんぱく質などの有機質に対して「無機質」と総称されます。一般的に植物が吸収するのはイオンの状態になったものです。例えば鉄をどんなに微粉砕しても、それだけでは吸収されません。リンも地中ではアルミニウムなどと強く結合してリン酸化合物の状態になっているため、この状態では吸収できません。つまり「あるけれどない」という状態です。

 これは大地の中にあるものですから、太陽エネルギーでは供給できません。無肥料栽培では、植物が地中のミネラルをいずれ吸いつくす、という疑問が出てきます。

 これに対して:

 地中で植物が吸収できない状態(不可給態)のミネラルをいくつかの方法で吸収している。

 →地中の腐植が不可給態のミネラルを吸収できる状態(可給態)に替えてくれる。よく私が例えるのは両替です。日本で現金の外貨を持っていてもほとんど使えません。しかるべき場所で日本円の現金に「両替」してもらうことで使えるようになりますね。

 →地中の菌類が長い菌糸を伸ばし、地中からミネラルを吸収し、別の菌糸が植物の根圏に届いて共生圏を作って、そこでミネラルを与える(一方で、菌は植物の根からなにがしかの物を受け取る)。

 上に書いた世界は、こうして文章で説明するよりも実際に畑で感じる方が遥かに愉しくワクワクします。私が「さとやま農学校」で皆さんにいつも伝えているのは、自然界のこのような「心躍るやりとり」なのです。

 さらに大事なのが、無肥料栽培の畑でしっかり育った個体から種を採って、同じ畑でまた育てる。これを何代にもわたって繰り返す。つまり「種取り」です。栄養状態が厳しくてもしっかり生き残る力のある個体が選抜されます。ここまではダーウィンの進化論による選択淘汰です。そしてさらに、ごく最新の研究が明らかにしつつあるのは、遺伝子の外にある情報もまた次の世代に伝わっていくという「エピジェネティック理論」です。ここまで述べている人は自然栽培の農家さんでもほぼいないことでしょう。「遺伝子組み換え」やゲノム編集など食のクライシスに取り組む「OKシードプロジェクト」代表の印鑰(いんやく)智哉さんの投稿で知りました。

この先の話は、やや専門的になりますが、行ってみれば天動説から地動説に移るくらいのダイナミックな転換期でもあるかと思います。興味のある方は(ありますよね!)続けて次の項目をお読みください。

無肥料栽培への新しい理論の可能性~エピジェネティック理論と元素転換~やや専門的になります

エピジェネティック理論を大掴みに説明するならば:
「生物はDNAの情報だけでなく、外的環境から学んだことによって進化を方向づける」というものです。

自然栽培には触れていませんが、東京大学生産技術研究所の記者発表に概要の説明があります。

https://www.iis.u-tokyo.ac.jp/ja/news/3769/?fbclid=IwAR38uJnaJohtuLpjihJ1gRSnlEiETgEkyRdEL33keb6dKnMMy6LoeDiV1-Y

ダーウィン以来の進化学では、集団内の形質の多様性は、あくまでも遺伝子の偶発的な突然変異で生じるものでした。遺伝子に拠らない経験は反映されないと考えられているのです。しかし近年の研究によって、親の経験が次世代に突然変異を起こす可能性が浮かび上がってきたのです。親世代の経験を各個体が学習して、子世代の変異に一定の方向性をもたらす・・・その可能性があるということです。ただし研究は始まったばかりで、実際のところ、親の経験によって進化がどれだけ方向づけられて加速するのか、体系的な理論はありません。

 それにしても、これは私たちが習ったダーウィン遺伝学の常識を全く覆す理論です。今の常識は「獲得形質は遺伝しない」というものです。例えばキリンの祖先が高いところの食べ物を首を伸ばして食べていても、それが原因でキリンの子孫の首が長くなるわけではない。と教わりました。キリンの首が伸びたのは、小さな遺伝的変異を長い年月をかけて繰り返すなかで首の長い個体が選択されて、今のようにキリンの首が長く進化したということです。小さな変異の繰り返しでここまで進化するというのも、なんとなく「話ができすぎ」な感じがして信じがたいですが、そのあたりの詳細な説明は長沼毅さん(進化生物学)による「生命とは何だろう」をお読みください。簡単なアルゴリズムで進化はどんどん精密に適応していくことが説明されています。つまりこちらの本はあくまでも正統なダーウィン理論です。

 いっぽうの研究では、上の記者発表にあるように、外部の環境を経験したことが遺伝の方向性に影響を与えるというのです。つまり「高い木の物を食べようとしているうちに、段々とキリンの子孫は首が長くなる方向に進化した」という感じです。ここから敷衍(ふえん)するならば「肥料の少ない環境を経験したことが次代以降の世代の進化の方向に影響を与える」可能性があるということです。つまり、栄養の少ない土地で育ったニンジンは、栄養が少なくても生きていけるように進化しているのです。
 無肥料栽培を長く続けている畑は自家採取が大原則です。その土地を記憶した種だからこそ、その畑で元気に生きるということが、科学的にも証明されつつあるのかもしれません。
 以上、かなり大づかみに説明しました。正確なことは皆さんで調べてください。ダーウィンの選択淘汰だけでない進化の道筋があるらしいということなのです。おそらく日進月歩で新しい知見が出てくることでしょう。
 そして何より大事なのは、百の理論より一つの実践、結果です。科学的にどう説明されるか、あるいは科学で説明がつかないか、それはあくまでも科学に拠る側からの都合です。本当に無肥料で美味しい野菜や果物、お米が採れるならば、そこに何の問題があるでしょうか。理論が追いつくまで待つ必要はないでしょう。

  

※ダーウィンの進化論は人間の起こりに関する理論であることから、様々な形で時の権力者によって利用または迫害をされてきました。ナチス政権はダーウィンの理論を都合よく解釈してゲルマン民族の優越を唱えて優生学まで生み出しました。同じころ、スターリンが独裁していたソ連では、生物学の立場から共産主義を正当化するルイセンコなどの科学者がスターリンに取り入ってダーウィニズムを否定するルイセンコ学説を唱えました。ひところのソ連ではこの学説が主流となって、それまで世界中の種苗を収集し、保存していたヴァヴィロフ(種苗の重要さを先験的に説いた歴史的な研究者)の施設なども壊滅的な打撃を受けました。それでソ連(現在のロシア)の植物資源の研究は数十年遅れたと言われています。
 そして近いところでは、今のアメリカ合衆国のいくつかの州において「ダーウィンの進化論は聖書の教えにそぐわない」として進化論を学校で教えることが禁止されています。

 

★元素転換と量子力学

 そして次もまだ確たるものではないのですが「元素転換」も考えられるのだそうです。

 つまり地中の元素が別の元素に転換するという現象です。ニュートン以降の近代科学では、元素転換は、特殊な環境下(超高温状態にある太陽の表面など)を除けば、起きないとされています。ニュートン自身が錬金術に挑んで失敗したのは象徴的なエピソードですね。 

 しかし、ニュートンの作りあげた科学の枠組みを根本的に変えることとなった「量子力学」の見地からすると、地上でも元素転換は起こるのだそうです。もうこの辺になると「すどう農園」には分かりませんが・・・「元素転換」は、ごく僅かなエネルギーでも起こり得るのだそうです。その僅かなエネルギーのもとになっているのが、生物が持つ生体電流だとも言われます。だから人間の体や心の状態が作物に影響する。つまり人が愛情をもって作物に接すれば、その気持ちが作物を豊かに育てているのかもしれないという考えです。

 量子力学は、すどう農園にはまるで分かりません。しかし農家としての経験から言いますと:

・炭を地中に入れてあげると植物が良く育つ。大地の再生の手法として地中の滞った場所を整えるときに、炭を使います。炭は肥料ではありませんが、木と違って電気を通します。それも上の考えに拠れば「微量なエネルギー」となって元素転換を促すのかもしれません。

・昔から「稲は人の足音を聞いて育つ」と言われます。とくに地中や水中での音は空気中よりも遥かに届きます。植物は動けないので外部の気配に敏感なはずです。そのセンサーとして稲の根は、田んぼの水中でも土のなかでも、人の足音を聴きとるのではないでしょうか。園芸家で植物を上手に育てる人を「緑の指を持っている」と言います。逆に私が見る限り、同じ種や苗を講座で配っても、まるっきり育たない人もいます。水やりや日当たりだけでない、何かのエネルギーがプラスやマイナスに作用しているのかもしれません。以上はあくまでも推測ですが、おそらくそうした目に見えないチカラは大きいはずです。

 すどう農園は、ニュートンの科学の枠組みで育った人間なので、いきなり元素転換と言われても正直なところ半信半疑です。ここが教育の刷り込みの怖いところですね。逆に「それなら万有引力を見せてみろ」と言われても証明できませんね。アメリカでは進化論を否定して聖書の天地創造を教える学校もあるそうです。あるいは地球平面説を信じる人も非常に多いそうですが、あながち馬鹿にはできません。この世界はどうなっているのか、人間にわかることは、ほんの一部分なのだという謙虚さは常に持ち合わせないと。どんなに否定されようと、無肥料でちゃんと育っている現場もあるのです(全くうまくいかない場合もあります)

  

以上の項目は、まだまだ修正加筆の余地がありますが、取り急ぎ、まずはここで公開します。2024年1月7日

固定種の野菜を育てる自然栽培を東京から日帰りで学ぶ「さとやま農学校・すどう農園」
固定種のブロッコリーを自然栽培で育てる・さとやま農学校にて

里山と自然農法の共通点

 化学肥料や農薬を使うと農地の生物多様性はきわめて低くなります。しかし、自然のままに任せた状態も多様性が低くなります。例えば日本全土で問題になっている篠竹で荒れた荒廃地が良い例です。
 それに対して、人間が適度に手を入れてきた里山空間は多様性に富んでいます。あるいは定期的に火入れや刈り取りなどを受けてきた川岸などでは環境が多様になり、生物多様性や生産性が高くなるのです。
 これを生態学では中規模攪乱(かくらん)仮説と呼びます。里山は、そこに住む人びとの攪乱(手入れ)により成立してきた日本の伝統的な空間です。逆に世界自然遺産の白神山地のブナ林は、人の手が入っていない貴重な自然森ですが、ブナはアレロパシーといって他の植物を排除する物質を出すこともあって多様性は低い。純粋な自然遺産のブナ林より日本各地で人間が手を入れてきた里山のほうが生物多様性が高いのです。
 人が関わることで多様性と自律機能を維持してきた日本の里山は、自然農法・自然栽培に通じるものがあります。人間が自然に働きかけ、作物と農地生態系の本来の能力を発揮させるという意味で、自然栽培は里山農業と言えるのかもしれません。西欧文明には人間が自然を支配するという思想が強くありますが、日本の伝統的な自然観は人と自然の共生です。作物が本来の力を発揮し、生物同士のネットワーク形成を手助けする自然栽培の考えは、日本の伝統的な自然観に近いものがあります。
 ※以上は月刊誌「現代農業」に書かれた青森大学・杉山隆一教授の投稿を「すどう農園」の文責で要約しました。御著書の「ここまでわかった自然栽培」(農文協)も最新の知見を備えたもので、大変参考になる本です。

東京・神奈川から日帰りで自然栽培を学ぶ「さとやま農学校」

以上、長く書きましたが、こうした理論は、実際に土に触れることでストンと腑に落ちてきます。
首都圏の皆さんと日帰りで自然栽培を学ぶ「さとやま農学校」でも、このようなことを実技の中で植物を前にしてお伝えしています。何より現場のリアルから教わることが大事なのです。既に独学で実践されている方も、改めて学ぶことは沢山あります。どうぞご参加ください。