経済成長期の下町で生まれて里山の自然農にたどり着くまで


どうしてここで農業をやるようになったのですか?
という質問を多くの方から頂くのですが、きちんと丁寧にお応えするのはとても大変なことです。
今回は一念発起して、これまでのライフレビューをまとめることにしました。


自己紹介という以上の、だいぶ長い連載になります。
少しづつ書きますから、少しづつお読みください。
同じものをnoteにも連載します。
2023/12/07 はじまり、はじまり。


その1 高度成長の下町

私は神奈川の相模湖という里山で自然農「すどう農園」を主宰しています。

都心から西に一直線。関東平野の果てに霊峰・高尾山があり、それを乗り越えたところ。生まれ故郷の東京を出てから30年ほどになります。

今は都会の人の自給に向けて「さとやま農学校」という農業体験の場を主宰していることから、私自身の農業を始めた経過を訊かれることも多いのですが、そのたびに詳細にお応えするのはとても時間のかかることです・・・というか無理です。
皆さんのお気持ちはよくわかるので、なおさら中途半端に端折って話すことはできませんし、とりわけ若い人には時代背景から話さなければいけません。かつては年配の方々の話を聴くのが大好きだったのですが、いま気が付けば、逆に話をする側に回っている。それは中身の程度はどうであれ、なにがしかの時代を過ぎてきた一人として義務だと思いますし、振り返って忸怩たることもある。それもこれも含めて、いま自分が営む自然農を語るには、遠景も含めて伝えないといけないのでしょう。
いささかの気負いは、敢えて抑えたりせずに、徒然と書き連ねていこうと思います。
いつもの畑ではゆっくり話せないこと、活字だから言えること、あれもこれもです。自分の来し方の披瀝を通じて少しづつ連載していきます。
 

敗戦後20年という遠近法

あなたは、今から半世紀以上前の東京を想像できますか?

荒川区日暮里という下町が私の生まれた街、生まれた時代です。

映画で言えば黒澤明監督の「野良犬」という作品があります。三船敏郎が刑事を主演するものでした。あるいは「復讐するは我にあり」。佐木隆三の原作を映画化した名作です。(舞台は関西ですが)おおむね、あの空気。

「野良犬」をご覧になればわかるように、今よりずっとビルも少ないのは当然ですね。戦争に負けて20年足らず。連合軍の占領下から独立して10年そこそこです。こう書くと、自分がずいぶん昔の人みたいに思えてくるから不思議なものです・・すべては時間の遠近法のなせる業でしょうか。

 東京に空はない、という有名なセリフが「智恵子抄」にありますが、あれはヒドイ。空はあるのです。ただし智恵子さんの故郷・岩手のような広々と清々しい空でなく、いつもどこか鈍色(にびいろ)に垂れこめた空。そもそも関東の空の色は薄くて彩のないものです。成層圏に手が届くような蒼穹の深みは真冬の強風のときくらいでしょう。加えて当時のスモッグがかかった空というのが、今となっては逆に懐かしい故郷の色です。その空の下で眺めた記憶の原風景には高速道路がめぐらされています。わが故郷の原風景は、想い起こす山も川もない代わりに高速道路なのです。いまなお狭い都心を迷走神経のように複雑に絡んで走る首都高速は、翌年(1964)に東京オリンピックを控えての突貫工事だったのでしょう。本当は戦前に開かれるはずだったオリンピックは中止になって、敗戦からほぼ20年を経ての開催でした。いま2023年から振り返って20年前というのは、つい最近のようですが、失われた30年と言われるほどの薄っぺらさもあるのでしょう。あの頃の20年というのは国全体にとって濃密だったのではないかと思います。

 どこの国にも、人の一生のように旺暮春秋(おうぼしゅんじゅう)の四季があるとしたら、この頃60年代は日本全体が春だったのかもしれません。一度は灰燼に帰した大地にまた緑が萌えてきた季節。ただしその春は、海峡を隔てた朝鮮半島やベトナムで、同じ民族が南北に分かれて殺し合う悲惨な戦争を踏み台にしての春だったわけです。これは忘れてはいけないことで、戦後の成長というのは、私は思うに、まずは若い人が増えたことによるチカラがあり、そしてもう一つは外の戦争という呼び水・需要があった。この国の近代を顧みれば、日清戦争、日露戦争、第一次大戦、満州事変と、絶え間なく戦争を奇貨として経済を成長させてきました。どれほど人が死のうとも「戦争は儲かる」ものだったのでしょう。実は今だってそうです。そのことの裏を返せば、戦後日本の経済成長は、ベトナムでのアメリカの敗北・撤退そしてオイルショックという大きな結節を経て、つまり身近に戦争がなくなったことで実質的にピークアウトしたのだと思います。90年代にバブルが弾けて云々という言説は、その後のエピローグ程度のものでしょう。

 

ナナメな人たちと世間

 私の生まれ育った日暮里界隈は東京の典型的な下町で、戦争特需のおかげで製造業はエネルギッシュに汗をかいて動き回っていました。町の工場はどこも開けっ放しで、盛大に鉄骨を切る音と火花、鉄板を灼き切る匂いが路上にも満ちていました。鉄にも匂いがあるのをご存じですか?「春は鉄までが匂った」という小関智弘さんの名作のルポルタージュもあります。こちらは大田区界隈の工場地帯が舞台ですが、灼けた鉄の匂いや、削り出された鉄くずの、それぞれに尖って輝く様の描写はよくわかります。鉄の匂いとはつまり血の匂いだと、いずれ里山に来て知ることになりますが、それは後で話しましょう。そんな血の匂いを折々に嗅ぎながら私は育ちました。

 なにしろ国全体が若かったのは、戦争で高齢者が生き残る余地もなかったからでしょうし、人間も多彩で多様だった。昭和の家族というとサザエさんのような紋切り型の家族像がスタンダードに思われそうですが、あれはよほどの上流階級。私には幻想です。戦争の残滓もあって、もっと人間関係は様々だった。景気は上向きだったけれど、みんなが定職に就いて真面目に働いていたわけもなく、子どもから見ても何をしているのかよくわからない大人たちがいた。ご近所にも親戚にも路上にもいた。親から教わりにくいこと、学校が教えたがらないことも、そうした大人たちが影でも日向でも教えてくれた。それが世間でした。親子の上下の関係にはない関係、学校が教える正しい社会の在り方に、すねて傾(かぶ)いた関係。タテヨコきっちりの正論ばかりでない斜めの「異見」。

 でも斜めは大事です。どんな家だって垂直の柱ばかりだと地震の横揺れに弱いでしょう。それで斜めの「かすがい」を入れますね。でもナナメの人間関係は、近頃なくなりましたね。存在そのものが許されないのでしょうか。親でも教師でもない大人が変なこと教えたら、それだけで問題になる。ナナメどころか家族も既に崩壊して久しい。

 だから都会のコンクリートに覆われた街は、空も地面も灰色でいながら、どこかに原色の猥雑が色さす景色があったのです。猥雑という言葉を久しぶりに使いましたが、懐かしい響きです。現在の日本が素知らぬ顔で覆い隠してしまった色彩ではないでしょうか。

 その猥雑がとりわけ極まるのは祭りで、浅草の三社祭みたいな有名な大祭でなくとも、各町内の祭りにも人間が・・・というよりも肉体がムンムンと群れてきて神輿を担ぐ。何しろ人間も街も若かった。陶酔のあまり神輿を担いでいる最中に指がちぎれても気づかない、それで救急隊が後を着いて歩きながら路上の指を拾って歩く時代でした。だからいつもと違って、神輿を担ぐ大人たちの姿が、どこか人間ではないような・・・というか逆にこれが人間だったのかと、見てはいけない世界、自分ら子供には近寄れない禁断の領分を目の辺りにした気持ちでした。

 神輿の担ぎ手のほとんどは褌一丁の裸族で、大勢が寄せ合って神輿を天に突き上げる所作は、いま思えば人間界と天上界のセックスそのものでした。担ぎ手の恍惚とした表情は、つまりそういうことかと、そんなことを知るはずはないけれど、いつもと違う世界の気配は理屈抜きで伝わってきました。だから今ときどき見かけるような「子ども神輿」などは本来やってはいけないのです。あれは神様に失礼です。未成年はおとなしく山車を曳いていればいいのです。「大人の領分」というべきものがあるのであって、そこには「子供の分際」で踏み込んではいけないのだと思います。どこの民族社会でも、子供が人になるにあたっては、民族それぞれに通過儀礼があって、それを通過してこそ子供が大人になる。そういう境目も分からないで育ったのは、私たちの世代も同じなのですが。

 けれども、こどもの分際は大人と交わることもありました。祭りが終わってそのまま家に帰るはずもなく、幼稚園の子供たちも一緒に、褌の大人たちに肩車をされて近所のキャバレーまで繰り出す流れでした。誰がどこの家の子など関係ない。世間はもっと大きな範囲で家庭的でした。いまとなってはキャバレーというのも懐かしい響きですね。我ら子供はホステスさんたちから「かわいい、かわいい」とチヤホヤされてパフェなど食った記憶があります。こういうことはなぜか覚えている。店内の明かりも赤青緑の猥雑な極彩色。後年になって観た唐十郎の「状況劇場」の照明がまさにこの色彩でした。下町生まれの唐十郎は「キャバレーの明かり」と喜んでいたそうですが、状況劇場の舞台は僕にも懐かしかった。ついでに言えば同時代の寺山修司の舞台は(彼は津軽の出身ですが)ねぶたのように土俗的なエキセントリック、つまり僕には縁の遠い、異国のサーカスを除くような感触でした。

 

あらかじめ失われたつながり

 東京の水は川も海も無残でした。横町のドブから東京湾まで、水という水が濁って腐い。今は死語となったヘドロが、溜り水の中で生き生きとメタンガスを吹いている。「コウガイ(公害)」と「アンポ(安保)」は当時の子どもが誰でも覚えた言葉でした。そんな幼年期の刷り込みのおかげで、いまでも川や海で魚が泳いでいるのを見ると驚きます。どこか現実と思えません。ナマモノの水の世界とのつながりが、私にとっては物心ついたときから「あらかじめ失われていた」のです。子ども時代の刷り込みというのは凄いものですね。だから私の里山暮らしは、いまなお、そうしたつながりを取り戻すために生きているところがあります。そしてそういう人間として、都会から訪れる皆さんにも、土や火やもろもろの植物とのつながりを取り戻して欲しいと思って農学校を開いています。

だから子どもを育てるなら、できる限り早く土に触れさせたほうがいい。これは理屈抜きで大事なことです。この文章をお読みのあなたが、いつか都会の平野から出ようと思っているのであれば、そして小さなお子さんが傍らにいるのであれば、理屈抜きで早く出たほうがいいでしょう。

 当時と比べてみれば今の都会は空気も空も格段にきれいになりました。しかし「あらかじめ世界のいろいろなものが失われている」という既失感は、いまもなお途切れず、耳鳴りのように基底通音として在るのではないでしょうか。失われたものを取り返す、そのための手始めの意味もあって、農園では折々に火を焚くのですが、まあ火の話は後で。

 東京の水の話に戻りますが、そもそも雨も危ないものでした。雨に当たるとハゲるから出るな、と大人たちは言ったものです。戦後の米ソの冷戦のなか度重なる核実験は、当時は大気圏つまり空の上で行なわれていたから北半球の放射性物質を非常に高い濃度にしました。それが雨になって降り注いでいたのもこの時代です。アトミック・エイジと呼ばれて私たちは育った。

 視界を遮るものの少ない下町には、木造の二階建てアパートが肩を寄せ合い並んでいて、大抵は屋上が共同の物干し場になっています。外階段を昇って眺めるとご近所の物干し場のところどころには、豚か牛の大きな皮が毛布のように何枚も干されている。グローブや太鼓をつくる皮職人さんも多かった。

 牛の皮が風に揺れる隙間に、北東の筑波山や北の群馬の山塊、西に目を向ければ新宿の向こうに名前の分からない山々、もちろん富士山も見えました。名前も分からない薄紫の山影のふもとでは一体どんな人が住んでいるのかと、まさか当時はそこに自分が暮らすことになるとは夢にも思うことなく、広い平野の果てが見渡せました。

 さて、私はいまここで平野という言葉を使いました。これが大事なキーワードです。どんな地形に生まれて育つかで人間の価値観は大きく変わると、私は思うからです。平野の話はこれから繰り返し語っていきます。

 私が生まれ育った木造のアパートもとっくにありません。十年くらい前に通りかかったら、何の匂いも影もない、悲しいくらいに普通の月極駐車場になっていました。時代は目まぐるしく廻り続けて、それで私は眩暈を起こしそうになるけれど、それでも容赦なく時代は回転木馬のように廻り続けて、都会は大きくなり、広がって、ものすごい遠心力で私を平野の周辺へ、そしてその外側へと振り切るように飛ばすのでした。そうしてたどり着いたのが、いま私の暮らす里山なのです。

 

つづく(2023/12/07)


連載2回目 平野を見つめ直す

どんな地形に住んでいるかで人は決まる、という話で前回終わりました。

 「地形」つまり地べたの形というものが、人の心の奥深いところで世界観や価値観を形づくるのだと私は思うのです。このことは今の里山暮らしとや然農につながる大事な話です。そして農園を訪れる皆さんのほぼ全員が関東平野(首都圏)の方なので、いましばらく平野の話をしましょう。

 東京の下町という平野の隅っこで生まれ育った私が、やがて平野から飛び出した…というか、放り出されるまでに人生30年かかりました。そうして里山にたどり着いてから、また30年が経っています。平野の暮らしと里山の暮らしは、同じくらいの歳月ですが、物心ついた頃の影響こそが人格の奥底に基盤をつくると思います。だから私のど真ん中(コア)は平野の人間なのでしょう。その後、こちらに移住してから里山のモードが幾重にも上書きされました。ですから今となっては、関東平野に行ってもどこか拠り所のない気持ちになるのです。慣れないアイススケート靴を履いて、広いリンクに一人で立っている感じ。手でつかまる何かが欲しいけれどない。つまり寂しいということ。

 私が暮らす相模湖から霊峰・高尾山をトンネルで抜ければ眼下に関東平野が広がります。行けども行けども遥かに街並みが続く。東の千葉までは霞んで見えない。1都3県あわせて3000万人という異常な都市空間。農村や荒野だったら、もっと広いところは世界中にいくらでもあります。しかし関東平野の異様なところは、行けども行けども街並みが続いているのです。そのほとんどすべてに誰かが暮らしていて、あるいは働いていて、それぞれ色々な何かをしているわけです(なかには人知れず孤独死されている方もいらっしゃるでしょう)。地名は東京だったり埼玉だったりと呼び名も変わるけれど、基本はぐるりと囲われた平面です。こんな空間が世界中で他にあるでしょうか?

 その平野からポンと弾けだすように、あるいは静かに滲み出るように、思い思いに訪れてくださる皆さんと自然農の畑で手を動かしています。この相模湖という関東平野のヘリは、そんな絶妙な立ち位置と思います。

「さとやま農学校」の皆さんにもたびたび申し上げるのですが、こうした里山の大事なことは、世界の中心と思い込みがちな平野の首都圏から一歩外に踏み出せることにあります。季節感の豊かな、良いところだけ目にする観光ではなくて、じっくり通うことで、言葉にならない物事を身体で感じ取れるということです。ただし言葉にならないと言いつつも、あえて一言半句でも言葉にしてみるといいですね。たとえば「坂道ばかりで自転車がこげない」というような風に、切れ切れに言葉をつなぎながら、周辺から都会を眺め直すという流儀をお勧めしています。周辺から世界を見るというのは大事なのです。もちろん周辺だの中心だのというのは主観的なものですね。里山にずっと暮らしている人にとっては里山が中心です。何十年も井戸の中に住んでいるカエルにとっては井戸のそのものが世界の中心だ。だから、自分にとって中心と思っていたもの、あるいは世間のみんなが中心と思っている場所から外れてみること。その時にあなたは何を感じるか?改めて自問するのが面白いですよ。さとやま農学校では「穴掘り」を大事にするのですが、これも地形とかかわってきます。穴掘りの話は後ほど。

さんだらぼっち

亡くなって久しい漫画家・石ノ森章太郎さんに「さんだらぼっち」という作品があります。江戸の吉原遊郭を舞台にした長編連載でした。主人公の「とんぼ」は、遊郭で遊んだ挙句に金を払わない客のところに出向いてツケを取り立てる「始末屋」という稼業です。落語の廓話(くるわばなし)でお馴染みの商売ですね。そこに石ノ森さん一流の人情噺が続く。なにしろ内容が内容なので中学生には刺激が強くて、いわば「膏血(こうけつ)を絞る」類のコミックでした。それがどうして「さんだらぼっち」という正体不明なタイトルなのか?タイトルの説明がないままに連載は延々と続きました。不意にあるとき台詞の中で「米俵の縁には、お米をこぼさないように、さんだらぼっちがある。自分たち始末屋もそれと同じだ」とポツリと呟くのです。長い連載の中で「さんだらぼっち」という言葉が出てくるのは、後にも先にもこのセリフだけです。余談ですが米俵は60キロありますかが、昔はこんな重いものを担いでいたのですね。それこそ運動会でも俵を担いで走る競争があったりしたらしい。すごい人になると両肩に一俵づつ担いだとか。あるいは小麦も、かつてのヨーロッパでは同じくらいの重さに袋詰めしていたそうです。

 いま私は思うのですが、広大な関東平野も米俵みたいだ。その米俵みたいな平野を囲む「さんだらぼっち」として里山がある。都会から漏れてくる人、こぼれてくる人を受け止める場所として里山は大事なのです。とくに数年前のコロナ過のとき、移動の自粛要請というものがありました。都府県をまたいでの移動は極力自粛して欲しいという要請の意味は、私にはよく分かりませんでしたが、とにかく「さとやま農学校」は一切の自粛をせずに静かに畑を耕しました。こんな事態のときこそ、農村が人を受け入れなくてどうするのだという想いがあったのです。それこそ「さんだらぼっち」という言葉を念頭に置きながら。

里山から平野を見る

そもそも、平野とはどういう場所でしょうか?
 いまさらと言わず、改めて考えてみてください。皆さんにとって地面が平らであるとはどういうことでしょうか?
 …動きやすくて便利。これに尽きるのではないでしょうか。平野は動きやすい。ですね。その分、モノを早く、たくさん、質を揃えて効率よく作れます。
 たとえば日本の農業にとって平野といえば水田です。山間にも丹精込めて作られた千枚田や、谷間(谷津)にこしらえた田んぼも素晴らしいものですが、それは自給のためであって、米を売る生業(なりわい)としての大きな水田は斜面には作れません。なによりも水平な土地であることが大事。わずか0.5%の傾斜でも百メートル行ったら50センチの水面落差になりますから、田植えすらできないのです。だから土木工事のようにきっちりと水平を取ります。この水田に象徴されるような平野の原理、原則、ルール、常識といったものが、農業から始まって産業全体そして私達の暮らし方・価値観まで貫いている。それが古代からの流れだと思うのです。里山にも営為工夫の先人の知恵がぎっしりと凝縮されています。しかし、圧倒的に水平・平野は強いのです。平野の知恵は、遠くへ伝播する力が強い。それを文明と言います。歴史で習った世界四大文明も、ずべて平野が起源でした。文明とは、よその土地まで人が伝えて広がっていくものです。それに対して文化というのは、むしろ土地の固有の風土のなかで育まれるものです。だから文明のような普遍性はない。むしろ固有性を大事にします。里山には文化はあるけれど文明はありません。それをもって「里山は遅れた未開地」とする価値観は根強いです。何しろ平野で生まれて育った人の方が圧倒的に多いわけですから。
 平野で大量の収穫を得るようになった人間は、身の回りのものを食べて生き延びるために栽培というレベルから次の段階に移りました。必要以上に採れた余剰を貯めることを覚えたのです。つまり「富」の始まりです。そして同時に「効率」という物差しを使いだしたのでしょう。つまり、限られた時間や面積、労働力の中で、どうすればできるだけ沢山の収穫つまり富が得られるか。ここで人間は「とにかく生きていければ御の字」という時代から次の段階に移りました。富のあるものとないもの、という人間同士の差異=貧富の差が生まれました。

※ちょっと余談
 農業から貧富の差が生まれるときに大きな役割を果たしたのが「貯めることのできる作物」です。つまり穀物や豆です。
 世界4大主食という言葉をご存じでしょうか?
 コメ=アジア起源
 ムギ=メソポタミア起源
 トウモロコシ=アメリカ大陸起源
 タロイモ(サトイモの仲間)=南太平洋起源
こういうメンバーです。このうち上記の3品目は蓄えが効きますね。世界4大文明もすべて、これら作物とともに成り立ったものです。それゆえ貧富の差にもつながっていった。となると文明の発祥とは裏表の関係で貧富の差もできたのかもしれません。だから:人間同士に格差をつくるのが文明の一つの要素であり、その要素があればこそ、文明は他の地域へと広がっていった。 と言い切っては乱暴でしょうか。
 4番目の作物のタロイモはサトイモの仲間ですが、これは保存が難しい。穀物のように乾燥させて保存しても暖かさゆえに腐るか、勝手に芽を出してしまいます。富にはならないのです。貧富の差もできない、文明も帝国も生まれません。また余談ですが、タロイモを主食とする人たちは、飢餓に備えて栄養を体内に蓄えられるように肥満型の体形になったという説もあります。富として蓄えるのでなく自分自身に蓄えた。
 それはさておき、琉球弧から南太平洋へと連なる島々に王国の勃興はありましたが、他の島々を次々と征服していくような王朝ではなかった。人民も移動し、分散し、つながり、離れたり、交流したり。いずれにしても南太平洋には、富(余剰を蓄えたもの)を源泉にした王国・帝国のようなものはありませんでした。むしろ「とりとめのない」移動分散型の世界だったのです。この「とりとめのない」という言葉も私の大事なキーワードです。元は文化人類学者の故・鶴見良行さんが著書の「マングローブの沼地にて」(絶版)のあとがきで使っておられました。この言葉は私にとって非常に大事な言葉ですので、これから先もしばしば出てきます。

効率という言葉の刃

効率という言葉を振りかざして、やがて人間は人間同士をお互いに測るようになっていきます。このあたりは我が事としてリアルにお判りと思います。本来はとりとめのない(計測しようのない)人間という存在を、属性を連ねて数値化してしまう。計測可能な存在にしてしまう。人間のとりとめのない部分を取捨して、差し替えのきくことばかりさせているのが、いまの多くの労働現場です。もう少し言えば、そうした差し替えの聞く人間を作り出しているのがこの国の多くの学校教育であるようにも思えます。部品になるような人間をつくる。
 「すどう農園」がどうして自然農をするのか?どうして固定種の野菜を育てて種を採るのか?その原点は、効率や生産性という言葉を浴びながら高度成長時代を過ごした平野とは違う、別の生き方を求めての物であるわけです。「自分が人間でいるために必要なこと」なのです。
 だから、種取りに惹かれるのは農家よりも農家でない人たちの方が圧倒的に多いことでしょう。素人だから種取りなどと言えるのだ、と言いたい農家さんもおられましょうが、それはその通りです。だから裏返してみれば、専門家になった農家とは何であるのか?
 もういい加減に効率というモノサシから自由になって手を動かしたい、人間に戻りたい。という人たちが、全国の畑や里山に来ています。移住や農的暮らしというのが、決して変わり者扱いされることのない時代になった。遅すぎたようにも思えますが、なんであれ確実に水は流れはじめたようです。でも三千万人という膨大な数からすれば・・・いやいや、こんな数字を言い出すのはやめましょう。

間尺にあわないナマモノとして

繰り返しますが人はナマモノです。あらゆるナマモノは不揃いです。合理性という間尺からどこかしらはみ出してしまう。それは当然のことですね。そもそも「揃わない」という表現が不自然なのです。自然界ではお互いに様々な違いを作ることで外部の変化に対応する仕組みはブロッコリーも人間も同じこと。
 はみ出た部分は切り落とす、そうしておいて物差しで測りやすい面だけを見る。それ以外の計測しにくい部分は見ない、あるいは削り落としたり切り取ったりする。それでも測りにくい場合には、いっそ排除する。挿し替える。労働現場での合理化とはまさにそれです。
 適応障害という言葉も出てきています。もともと不揃いの人間を、箱の間尺に合わないからと言って「障害」扱いする発想。かつては間尺に合わないお互い様を含みあうだけの世間の余裕がありました。大なり小なりの規格違いはお互い様。都会でも農村でも人間同士が肩を詰めあって生きる世間があったのですが、いまはどうでしょうか?家庭や地域という、昔ながらの共同体が空っぽになりつつあることは、いまさら私に言われるまでもないことでしょう。
 里山に目を向けると、ここはそもそも合理的ではありません。効率が悪い。世界が平らでないからです。それを平野の物差しから見て合理的ではないとしてしまうのです。
 しかし里山には里山のモードがあります。これから段々と書いていきます。里山のモードは平野とどう違うか?それも知らぬままに、私は都会から里山に来てしまったのですが、なにしろ人間のモードですから決して難しいことではなくて、数年も暮せばなんとなく肌身で分かるものです。今は逆に平野のモードに戻れない。
 たとえばトラクターできれいに整地された畑には興味がわかなくなりました。悪く言うのではありません。あくまでも好みの問題です。綺麗に耕された畑で野菜がむくむく育ってくるのを力いっぱい収穫して、息が切れるほどトラックに積み込むのは爽快です。野菜の収穫量を量りながら箱に詰めて、最後に納品伝票や請求書をサッと書いて出荷する。月末につつがなく入金されたことを確認してビールを飲む。これは農家の醍醐味です。そのためには、綺麗に整地されているのは基本の基本。便利なものです。
 けれど今の私が好きな畑は、いろいろな生命が関わり合って生きている世界としての畑です。虫もミミズも野菜も落ち葉も一体になれる。生まれながらの農家さんには分かりにくいところでしょうし「そんなに甘いものではない」とも言われそうです。しかし言わせていただくならば、農業に限らずどんな仕事にも、世界を感じる感性は必要です。それがない農家は、この先無人のトラクターやドローン、AIが管理する施設栽培に間もなく差し替えられます。甘く見ているのはどっちでしょうか?
 効率を追い求める刃先が自分にも向いてきたことに疲れた現代人が、どこかに拠り所を求めるとき、そこで自然農に惹かれるのも、つまりダンゴムシもキャベツもムクドリも一緒になった世界に包まれる安堵感なのでしょう。下町の地べたには動植物はなかったけれど、その代わりに色々な人達がいて、それぞれに関わり合っていました。今よりもずっと助け合っていました。それも今の都会では空洞化してしまったようです。なにより剥きだしの地べたが、ほとんどないですね。微生物がむっちりひしめく豊かな土、疲れきって倒れ込んで両手をつける土が、僅かな一隅にあるかと言えばそれすら厳しい。除草剤を気にしないで裸足に慣れる場所がどれほどあるかと言えば、心もとないわけです。
 私が二十代に初めて訪れた東南アジアの路上に底知れない安堵感を覚えたのも、どこか原点に戻れるような路上があったからです。この話もまたのちの回で書きます。 

歴史にかかれない里山の記憶

歴史の授業には年表がついてきました。あるいは教室の黒板に日本史年表などを長々と紙に書いて張りめぐらしたこともありました。書いてあることは、大きな戦であったり、飢饉であったり、貨幣ができたり、云々。
 しかし今思うのですが、その歴史年表に載っている事柄は、古代から現在までほとんど平野の出来事です。戦争も革命も大火事も疫病も政権交代も、これらは平野の出来事なのです。歴史とは平野で起きた出来事の記述とすら言っていいかもしれません。例えば関ヶ原の戦い。あれは天下分け目の大決戦でしたが、まさに「原」でのイベントでした。それは山ではできないのです。大きな戦は平野か海の上でしかできない。山の中というのは、物事が白黒つくような、つまり歴史として記述できるような、5W1Hで記録できるような物事が起きる場所ではないのです。
 けれども忘れてはいけない。関ケ原で狼煙を揚げてお互いに殺しあう光景をずっと遠目に眺めながら、全く別のモードで生きている人たちがいたかもしれない。それは西軍とか東軍とかいうような、どちらかに定住していたとも限らない。そもそも定住する必要はないし、平野の戦火の行方を見極めて行方を定める人たちもいたでしょう。定住民の目では書き留めることのできない視線で世界を見る人たち。

とりとめなく生きる

定住民とは違う目線を「とりとめがない」という言い方をしてもいいかもしれません。合理性といったものが重要視された平野の物差しと、この里山のとりとめのなさとは対極をなしていると私は感じます。そして私自身は、とりとめのない世界が好きです。関東平野で生まれ育って、高度成長という高率一辺倒の時代を過ごし、しっかり平野のモードに染まり切った人間が、モードの違う里山に移り住んでから同じぐらいの年月が経ちました。両方の物差しを肌身で感じて生きてきて思うのは、そういうことなのです。その想いが「さとやま農学校」という形をとりました。都会の人たちに、里山の「とりとめのなさ」を少しでも感じて欲しいからです。
 「とりとめのない」社会を文化人類学では「移動分散型の社会」と言います。平野で田畑と一体になって生きている農耕民族とはずいぶん違う。山から山へ、あるいは島から島へ。国家に帰属することなく、あるいは蓄えることもなく「とりとめもない」生き方を飄々とするなかで、段々と平野の世界に移っていった人も多いながら、今なおとりとめなく、いつも何かから抜け出るように生きている人もいるのではないかと、どこかで憧れる気持ちもあるのでしょう。
 同じような言葉としてノマド(遊牧民)というのも、ひところ流行りました。今はどうなのでしょうか?何物にも縛られることなく生きていくイメージが先行しますが、実際は「個人事業主」という名のもとに厳しい契約を無理強いされているコントラクトワーカーが実態ではないのでしょうか。
 縛られない生き方をなにかが担保してくれてこそ、本来の意味でのノマドは成り立つはずです。ケガや病気で仕事を失ったら、いつ行き倒れになるか分からないような生き方を遊牧民はしません。
 そうなると深刻です。
 合理性に切り取られことのない、自分らしい生き方を担保してくれるものとは何か?どこに拠り所を立てて生きていけるのか?
 これが今の私自身の大きなテーマです。
 既にこの国では、孤独死というものがごく身近になっています。そして孤独死の9割が男性だそうです。さらに女性の孤独死の場合は、死後3日ほどで見つかるのに対して、男性の場合は腐臭がしてくるまで誰にも気づかれないらしい。悲惨な話ですが、これほどまでに拠り所がない、のです。
 「どう生きるか」という問いに補助線を引いた延長上には「どう死んで行くか」という問いが続きます。二つの問いの間に切れ目はありません。それこそ「とりとめない」生き方の果てに「とりとめなく土に還る」とできれば本望なのですが。
2023/12/29

つづく