世界の間尺を図るモノサシ

本日も午後は「さとやま農学校」の説明会でした。
ここ数日の寒波も峠を越したのか、暖かく風もない日和。
のんびりとご説明をできました。
説明会では、農学校専用の畑だけでなくて、農地のはじっこ・・・もうそこからは森が始まるのですが、そこまでご案内します。かつてはずうっと奥の森の中までお連れできたのですが、いまや森に通じる小径が笹で埋もれてしまって通れない。そんな状況も時代の趨勢です。

森に向かう道すがらで説明するのは、里山という地形の意味です。
なにしろ地形はとても大事だと思う。もうちょっと言えば場のチカラ(トポス)を意識すること。
いま自分がどんな地形・環境で生きているか、それによって本当に人は変わるから。


たとえば、農学校に来る人のほぼ全員が平野にお住まいです。
平野で暮らしていれば平野の価値観が無意識に浸っていくわけです。
日本の平野は全体の3割くらいしかないけれど、その平野に日本の人口の、とりわけ若い人の多くが暮らしている。日本だけでなくて、それは全世界のトレンドです。
その平野のモノサシというのは、田んぼに象徴されるように、一定の面積と時間でどれだけ質と量を高めた生産ができるか。それにかかってきます。

だから近代以降の世界というのは平野中心の時代とも言えるでしょう。
年表を見てみればわかるように、そこに書かれていることのほとんどは平野の出来事です。
代表格は戦争だ。これは平野か海でしかできないイベントですね。
何しろ山の中で戦争しても雌雄の決着はつかないから。

近代の価値観の柱は、つまり合理性にかかってくるのですが、合理性の極まってゆく果てには、間尺に足りない人間を人間同士で切り捨てていく始末になるわけです。いわゆる合理化、というものですね。
そうしたモノサシが息苦しくて、畑に来る人も少なくないわけです。

そこで大事なことは、平野のモノサシばかりがこの世界唯一のものではないと思い至ること。どのモノサシが良い悪いでなく、人間は世界と自分を照らし合わせるモノサシをいくつか備えておいた方が良いと思うのです。それができると、ずいぶん楽になる。

時間を図るモノサシだって、例えば畑で野菜をつくるなら数か月、果樹なら数年、杉の木なら50年、そんな風に時間のサイクルが複数あるわけです。自分が死んだ先のことまで考えて仕事をする、そんなことが現代の都会にどれほどあるでしょうか。いま何とか目先を過ごせればいい、そんなモノサシばかりではないでしょうか。

だから、どれか一つの物差しに執着したり、救いを求めたりしないで、何本か線を張っていく。
そんなしなやかな、したたかな生き方を、考えてほしい。
そこまで願って「さとやま農学校」を企画しています。