敗戦日記を読む

「敗戦日記」高見順 38

「敗戦日記」大仏次郎 47

「罹災日記」永井荷風 65

「東京焼儘」内田百閒 56

「不戦日記」山田風太郎 23

 

満州にかかわる読書からひき続いていま、敗戦当時の作家たちの日記を読んでいます。数字は敗戦時の年齢。山田風太郎は医学生で徴兵免除。男ばかりながら各年代が揃った次第です。さらに番外編として:

 

「終戦を読む」野坂昭如 (疎開先の福井で敗戦・14歳)

「ニッポン日記」マーク・ゲイン (45年から特派員 43歳)

「占領下日記」ジャン・コクトー (パリ解放時 55歳)

 

空襲を受けるまでの日本にとって、戦場とは大陸や南洋などの外地だったはずが、それゆえに「銃後の守り」という言葉までできたはずが、本土が戦場になり、赤ん坊から老人まで無差別に殺される日常が何か月も続いた。そんな言わずもがなを確認しながら読む。

 

日記はどれも東京を中心に書かれています。

米軍による空爆・無差別殺戮が1945年3月の東京大空襲から全国へ広がり、広島・長崎の原爆から敗戦、戦後まで。とりわけ8月15日以降の記述は、行間に目を凝らして読み返しています。ときに同じ日付を複数の日記で読み比べながら行きつ戻りつ。

読めば読むほど、この国はどうにもこうにも得体がしれない。

たとえば8月15日の敗戦というのは、その日を境に暗雲が吹き払われて青空が眩しく晴れ渡ったというような、そんな颯爽としたピリオドではないのです。

それどころか、今の日本につながる物事が、細く太く絡みあって、切るに切れないあれこれ同士で引きづりあっている。どこまでも不定形で嚙み切れない呑み込めないもどかしさ。それがまったく、今もこの国に、なお同じく続いて在る。

 

 まだ読みたい日記はあるのだけれど(たとえば徳川夢声のものなど)、いったん措いて、考える時間を取ろうと思う。たとえ切れ切れでも、少しづつまとめていこうと思う。