3・11から10年を過ぎて

昨日の2時46分。ご近所のカフェで黙とう。
10年前の同じ時刻には、ビニールハウスでレタスの種まきをしていました。
ずいぶんな揺れだったものだから外に飛び出して、そうしてまず思ったのは「ここなら大丈夫」という安心感でした。
まあ、崩れてくる建物は何もないし、地割れもないようなので単純にそう思っただけのことでした。
呑気にハウスで作業を再開、それが街に出たら電機も信号も水道も何もかも停まっていることを知って慌てだし、そうしてさらに福島原子力発電所の事故を知り、それから世界が大きく変わりました。
あのときも、こんなにサクランボが咲いていたかどうか。そこまでは覚えていないのですが。

細部の記憶はともかくとして、3・11の原発事故そのものは、いまだに私たち農家の前には厳然と「ありつづけて」います。
とりわけオーガニックの農家ほど被害は風評も含めて大変なもので、北関東では産直提携の農家さんも契約解除が続きました。

「死ぬまでお宅の野菜を食べ続けます」と言っていた消費者から契約を解除されたことから「これまでの関係は何だったのか?」と、人間不信になって産直をやめてしまった生産者もいます。「安心、安全」という言葉のやり取りのフラジャイルなこと。かたや一般の野菜を扱う直売所などは、一時を過ぎればもう放射能を気にするそぶりもなく野菜が売れていくという皮肉な現実。
 「あんな盛況を見ていると、私らがここまで放射能検査したりしている意味が何だか分からなくなってきますね」
と言っていたのは、有機の食材だけを扱う仲卸の業者さんでした。
つまりはあの事故で、それまで見えなかった関係もろもろが、ゴロゴロと掘り出されてきたのでした。

 

「お金ならいくらでも出しますから、とにかく放射能に汚染されていない野菜をください」
有機食材を扱うお店ですごい勢いでまくしたてられて「こんなエゴな客に売るくらいなら自分が生産者になろう!」と決心して「すどう農園」の研修生になった人もいました。あるいは事業が津波で大打撃を受けたことをきっかけに、かねてから望んでいた農業に転身した人もいます。

それぞれの10年、それぞれに現在形です。