レタスの苗に想うこと

以前ご縁があった方にレタスの種をお渡ししました。農学校の受講生さんではないので「まずはお試しに」とお分けしたものです。その後しばらくして「実はこうなりました、お恥ずかしいですが・・・」と写真がメールに添付されていました。

これは典型的な日照不足です。
 

都市部にお住いのようですから、ベランダには直接の陽当りがあまりないのでしょう。いわゆるモヤシと同じ状態になってしまいました。とりあえず応急処置をアドバイスしたのですが、そうした技術的なフォローよりも何よりも、まず心に留めるべきこととして「このレタスの芽の様子は、つまりあなた自身ではないでしょうか」と申し上げました。カフェにお勤めと伺いましたが、そうなると自宅でも職場でも太陽を浴びることが少ないわけですね。
 

非常にまじめな方で考察も深く、読書も良くなさっているようで将来のビジョンもある、未来が楽しみな若い方ですが、今のうちは若さで何とか日陰暮らしも凌げるかもしれませんが、やはり限度はあります。今回のコロナ騒動(私はあえて騒動と呼びます)で、多くの人たちが今の都会暮らしに根っこの部分から「これでいいのかな」と思うようになってきたようです。それはひとつ、この騒動の副産物かもしれません。コロナ禍という言い方もあるようですが、まさに「禍福はあざなえる縄のごとし」そして「危は機なり」です。 

 

かつてのような「都会に行けば何かがある」という漠然としたメリットはどんなものでしょうか?仕事というよりは雇用、それは多少とも多いかもしれません。しかし自分が自分を頼って独り立ちしていく環境は、いまや地方都市でも相当のインフラが整っています。コストも安い。人間同士の出会いも、むしろ都会で雑多な忙しい同士でドタバタしあうよりも、しっかり根ざして暮らしながら仕事をする環境はよほど心地よく整っています。
 

すどう農園の主催する「さとやま農学校」は基本的に農的な暮らしを少しづつ踏み出すための、全く初心者の方々を想定した場所ですが「いずれは移住などして農的な暮らし、仕事をしたい」という希望の方が年々増えています。とりわけ40台前後の男性の参加が昨年あたりから目覚ましい。
 

「地方に仕事があるか、雇用があるか」というような問いかけはそれ自体が空しいものです。どこまで行っても他人にぶら下がるばかり、自分を切り売りする算段ばかりになってしまいます。自分の値段の多い少ないにかかわらず、それは本質的に同じことでしょう。非常に古い唄ですが「東京がダメなら名古屋があるさ」という水前寺清子の唄がありました。高度成長の時代ならいざ知らず、東京であれ名古屋であれ、心構えが変わらなければ結果は変わりません。明日があるさ、という歌もありましたね。今日を無駄に見送ったら、明日はないものと思った方がいい。
 

いきなり大きく変えることはないのです。一つでも、少しでも、やりたいことを初めて試して失望して失敗して、他人がみんなうらやましく思えたりして、またもう一度、この繰り返しが愚直だけれど大事と思います。「これだけは何が何でも好きなんだ」というマグマのようなコアがある人はもの凄く幸せですが、なかなか真似できないことです。ほとんどの方は漠然とあれもこれもの情報に浮かび漂っていることでしょう。だからコロナみたいな塵芥の情報の波をまともに溺れるばかりです。

というわけで、今年から少しづつ、なりわいをつくる入り口も作っていこうと準備中です。詳しくはまた。