トナールとナワール

先日のブログで紹介した動画「本の話・気流の鳴る音」の話を、いまも、農作業などしながら自分なりに反芻(はんすう)しています。良い本は、読み終えた後の残響がお寺の鐘のように、しばらく続くのですね。その響きを感じながら新春の畑に向かっています。

 

自然農の良いところは、自分の心地よいペースで体を動かしながら物事を考えられることにあります。

同じ農業でも、例えばコンピュータ制御のハウス栽培(工場)や、大規模な農業機械での作業では、じっくり物事を考えることは難しい。少なくとも私には無理です。大事な事柄の決定や、良いアイディアはいつでも、自然な状態で心身が動いているといきに何気なくスッと心の中に降りてきます。ですよね?パソコンの前で腕組みしても、何も閃いたりはしません。

頭の中が自然なアイドリング状態のときに、どこからともなくやってくる「なにか」を・・・それは陽炎みたいに束の間のものだから、掌で包み込むようにして大事に反芻する。この瞬間は、梅の剪定の最中だっり、焚火の薪拾いの途中だったり・・・予期せぬタイミングで閃く瞬間が、何とも言えず愉しいのです。


さて、動画のなかで、「トナールとナワール」という本の中に出てくるキーワードを引用しました。
これはメキシコの先住民族の言葉です。日本語で説明するのはなかなか難しいところを、動画では対談相手の竹内さんが若い感性で読み解いてくれましたので、そちらをご覧ください。もちろん「気流の鳴る音」を読んでいただければ、なお嬉しいです。ちくま学芸文庫から出ています。

自分がいて、自分を囲む物事・・・それは「世界」という呼び方が現代では一般的ですが、その両者の関係をめぐって、著者の真木裕介さん(昨年物故されました)は、メキシコやインドを旅しながら想いを巡らします。
動画の中ではあまり話していなかったのですが、やはり自然農というのも、自分と自分以外の世界との関係から始まります。お米や野菜などを作るのが農業ですが、収穫するものだけを育てるのではない。命が巡って活かしあう世界に自らを置くこと、そして、必要なだけの手を添えて食べるものも作らせてもらう、それが自然農の姿勢ですから、どこからどこまでが「自分」なのか、それこそ輪郭がわからなくなってくるのです。

 

たとえばインド哲学の「梵我一如」という考えがあります。宇宙の本源を表すブラフマンと、個々の人間の本質「アートマン」とが一つであるというものです。自然農の畑にいると、大げさでなく、梵我一如の気持ちになります。年月を重ねて畑ができてくるとい、ますますその一体感が塗り重ねられてくるようです。

やはり、なんといっても農の醍醐味はこの一体感かなと思います。収獲ももちろんありがたいですが、あくまでも一体化なってのことですから、その収穫はみんなで分ける。それがまた次の一体感につながっていきます。それもあって、すどう農園では野菜の販売をやめたわけです。

ここまで書いて、そろそろ今日の畑に向かう時間です。
今日はこれから「さとやま農学校」の皆さんと、かまどづくりです。
いまではホームセンターで売っている簡易かまどを使っているのですが、かなり農学校のみなさん、火の使い方も慣れてきたし、集まって一緒に食べることの大事さを、この時代の状況もあって、大事に思ってくださいます。そんなわけで、一念発起してのかまどづくりです。昨年から「講座・火と暮らす」もやらなくなってしまったし(農学校のコースが増えて物理的に開催が無理になったためです)、私としては、新しい機能を盛り込んだ進化形のかまどを創るべく、ワクワクしています。
というわけで、雨、降らないでほしい。